「落としても壊れない時計」。
それはやがて、 世界に誇る
「G-SHOCK」という
ブランドへと駆け上がった。
今から40年以上前の1981年。企画書に書かれた「落としても壊れない丈夫な時計」という一行から、現在まで受け継がれるG-SHOCKの壮大な物語がスタートしました。その開発者はG-SHOCKの生みの親であり、世界中のファンから「Father of G-SHOCK」として知られる伊部菊雄さん。そして約2年にわたる試行錯誤の末、1983年4月12日に記念すべきファーストモデルであるDW-5000Cが店頭に並んだのです。 その後、1990年代後半には日本中で熱狂的なG-SHOCKの大ブームが巻き起こったものの、ブームの終息と共に低迷期へ。そして、「耐衝撃性(タフネス)」を核とした原点回帰を目指しながら、グローバルなマーケティングで一躍“クールな”ブランドへと変貌を遂げました。10代~60代までの幅広いファン層を持ち、ライフスタイルブランドという新たな成長を目指すG-SHOCK。日本発の小さなプロダクトが、いかにして世界に誇るブランドへと駆け上がったのか。その戦略と秘密を探ります。
創業時から、ゼロ→イチの精神を持つ会社。
自分たちが開発した製品で、海外進出を目指す。
カシオ計算機の創業者の名字は樫尾=KASIOですが、ロゴはCASIO。その理由は創業当初から世界への進出を意識し、誰もが知っている星座のカシオペアを想起させるCASIOは、最先端製品のイメージに最適だと考えたからです。これまでに数多くの世界初、業界初の製品を生み出してきたカシオについて、「創業時からゼロ→イチの精神を持つ会社。自分たちが開発した製品で新しいマーケットを作っていくプロダクトアウトの会社ですね」と語るのは上間さん。長らくG-SHOCKのマーケティングを主導し、G-SHOCKの歴史を裏の裏まで知り尽くしている人物です。
「落としても壊れない時計」をコンセプトとして初代G-SHOCKが誕生したのは1983年。特に大きな注目を集めたわけではありませんが、アメリカでは“タフネス(耐衝撃性)”という実用性が高く評価され、警官や消防士、軍人などに愛用されていました。「カシオはにニューヨークに事務所を設立しています。当時のG-SHOCKは大手スーパーマーケットなどで手軽に購入できる時計で、まだチープなブランドという認識でした」と話す澁谷さんは、アメリカに14年間駐在し、現地のマーケティングを担当。「1990年までのG-SHOCKは、丈夫なギア(道具)やヘビーデューティー(耐久性)というイメージが強かったのだと思います」。
最初の転機が訪れたのは、1991年頃。アメリカ西海岸のスケートボーダーの間で「転んでも壊れない」こと、そして他には無い個性的なデザインが人気となり、それが逆輸入のカタチで日本に紹介されて人気に火が点きました。当時の若者ポップカルチャーの中心地である渋谷からG-SHOCKの人気は日本全国に広まっていき、限定モデルの発売日には多くの行列が出来るなど、その社会現象ともいえる大ブームは1997年にピークを迎えます。上間さんは、「この時の成功が、G-SHOCKをファッション・スポーツ・アート・音楽といったカルチャーと結びついたブランドとして育てていこうと考える契機になった」と、当時を振り返ります。
音楽+スポーツ+ファッション+アートを
軸として、 クールなブランドに変貌。
やがて会社全体がイケイケだったブームは終息し、以降は出荷台数も急激に右肩下がりとなる逆境の時代を迎えます。しかし、ここからがG-SHOCKの新たな価値を生み出すことになる時代でもあります。まず行ったのは“原点回帰”。「壊れない、止まらない、狂わない」というG-SHOCKの本質に立ち返り、電波ソーラー技術の導入や、開発当初のコンセプトである「タフネス」に磨きをかけた“トリプルGレジスト(衝撃力、遠心力、振動の3つの重力加速度に耐えるタフネス構造)”の開発など、2003年から2005年にかけ、徹底的にプロダクトを磨いていきました。
一方アメリカでは、日本市場とは異なり、ファッション的な良さやユニークな時計というイメージが浸透しておらず、依然としてスーパーマーケットで安価に販売されている状態。そこで澁谷さんは“クールなブランド”への転換を目指すべく、様々な改革を行います。まずは流通チャネルを大きく変更し、デパートや高感度系ショップなどで販売することに。同時に、ホワイトやレッドなどのカラフルなカラー展開を行うファッション的マーケティングも進めました。こうした戦略を大きく後押ししてくれたのが、当時絶大な人気と影響力を持っていたヒップホップ界の有名アーティスト達。「アメリカの誰もが知るアーティストがプライベートで愛用していたり、プロモーションビデオでも着用したりしました。それを見て、これはイケるぞ!と思いましたね」と澁谷さん。
そして、G-SHOCKを真のグローバルなブランドにすべく上間さんが企画したのが、「SHOCK THE WORLD」。2008年(G-SHOCK誕生25周年)にニューヨークで初めて開催されたこのイベントは、G-SHOCKが持つ技術的背景やストーリーを流通・メディアパートナー向けに伝えるカンファレンスと、G-SHOCKの世界観を感じてもらうためのパーティー(大物アーティストによるライブ)という2部構成。現地のファンやメディアとの交流の場として大人気となり、その後ロンドン、パリ、上海、香港、バンコク、ジャカルタなどでも開催され、以降世界各国で定期的に開催されてきました。アメリカは販売するだけでなく、そこから全世界に向けて情報を発信できる市場であり、その特性を見越した戦略でもあったのです。
こうしたプロダクトにおける原点回帰と技術へのこだわり、そしてグローバルなマーケティング戦略が見事に融合し、出荷台数も右肩上がりに増加を続け、1997年のピーク時の600万台を上回り、2019年の出荷台数は1,000万台(9割が海外市場)という数字へ。G-SHOCKは、腕時計というジャンルを超えた“ストリートカルチャーのアイコン的存在”としての地位を確立していくことになります。
継続すること。そしてベクトルを合わせること。 モノづくり=Made in Japanのストーリーを伝えていく。
グローバルなブランドへ成長したG-SHOCKのマーケティングにおいて、大切なものは何か? 「G-SHOCKの歴史を振り返ると、マーケティングは何より継続性が大事だと感じます。ずっとG-SHOCKを好きでいてくれるロイヤルファンとの関係性を保ちながら、若い人たちにもG-SHOCKというブランドの魅力を発信し続けなければならない。音楽+スポーツ+ファッション+アートというカルチャーとのつながりを持つ時計は、G-SHOCK以外にありませんから」と上間さん。原点であるタフネスと、カルチャーとのつながりという唯一無二の魅力。その2つを軸としながら、「時代に合わせて常に新しい価値を提供していることが、G-SHOCKの強さかも知れません」と澁谷さんは語ります。
「具体的にはより上質な時計を求める人に向けた、日本のモノづくりの技術にこだわった最高峰コレクション“MR-G”シリーズ。一方では、若い世代をターゲットとして、世界的に人気の日本アニメやペット系とのコラボモデルなど。モノづくり=Made in Japanの素晴らしさをグローバルに発信することで、インバウンドにもつながるし、日本の魅力の再発見にもつながるのではないでしょうか。G-SHOCKは時代に合わせた新しい価値を提供し続ける“ゲームチェンジャー”だと考えています」。
また、上間さんは、「ベクトルを合わせること」の大切さも強調します。「G-SHOCKには、本物のストーリーと歴史がある。もちろん、国や地域ごとに事情は違いますから、露出ボリュームや情報発信の方法は変えますが、ブランドの根幹や伝えるべき価値を変えることはありません。それが、ベクトルを合わせるということです。SHOCK THE WORLDは、そのベクトルを合わせるためのイベントでもあり、5年周期で開催しています。私たちだけではなく、各国のメディア関係者、流通に関わる人たち、販売してくれる店舗まで、何を伝え、どのように販売してほしいのかを全員で共有するからこそ、グローバルなマーケティング、グローバルなブランド戦略を実現できるはず」。
そして現代には欠かせないSNSは、ファンとのコミュニティ形成の場と捉えて積極的に取り組んでいますが、G-SHOCK誕生40周年の2023年を機に、アンバサダー・インフルエンサーによるマーケティングを強化しました。グローバルはアンバサダーで、ローカルはマイクロインフルエンサーで、というような棲み分けを行い、認知を広げると同時にさらなる深掘りを目指していきます。