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自然と共生する日本の精神性と、食文化を通じた地球社会の未来への期待
伊勢神宮(以下神宮と表記)の恒例祭は年間1,500回にも及ぶが、神嘗祭を中心とする稲作文化を象徴したお祭りといわれている。この恒例祭に対して、20年に一度斎行される神宮式年遷宮は最大の厳儀とも称される。伊勢は、『万葉集』などに代表される古典の枕詞をかりれば「神風の伊勢」である。「かむかぜ」と読ませるこの語彙は、穏やかな気候風土にして、五穀豊穣に必要な適度な雨をもたらす優しい風を連想する、伊勢にぴったりの言葉だと思う。また『日本書紀』の垂仁天皇の御代に天照大御神はやまと倭ひめの姫みこと命に「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にも寄せては帰る国である」と仰せられたことから、太陽にも喩えられる天照大御神の御神徳を想起し、光、風、波が伊勢の自然を育む、自然と共生する神都伊勢のまちをイメージする、と私は勝手に考えている。
人間が社会生活を営む上で必要不可欠なものは、「衣食住」の三つである。1,300年の伝統を有する神宮式年遷宮もこの三要素が不可分であることは言うまでもないが、今回はその中の食に焦点を当て、神宮の食、つまり神饌として神々に供奉されてきた悠久2,000年の歴史を振り返りたい。
今日、地球環境への配慮が国際的に叫ばれ、温室効果ガスの拡散や食物の食べ残しの廃棄処理などの問題が報道で度々取り上げられるのを見聞するが、神宮の食文化が地球社会の未来への指標として一隅を照らすのではないかという点を同時に示唆したい。
延暦23年(804)に撰述された『皇太神宮儀式帳』には、6月15日の月次祭に際し志摩国神戸の百姓たちが奉るあわび鰒、さざえ栄螺などのみに御贄が記され、延長5年(927)成立の『延喜式』巻四「伊勢大神宮式」によれば、月次祭、神嘗祭の三節祭に腊、金海鼠、古固魚、海藻、塩、油が供進されていた。中世になると、神宮の神領について著した『神鳳鈔』に「二所太神宮御領諸国神戸・御厨・御薗・神田・名田等」とあり、伊勢国14郡をはじめ、日本60余国中、実に40カ国、1,350ヶ所に及ぶ両宮の各種所領から様々な御物が奉納されてきたことが分かる。
律令制度弛緩以後も国々所々から貢物は奉られた。明治維新頃までの三節祭には、桧籠と呼ばれる籠の中に魚の切り身や野鳥、水鳥を入れて、五十鈴川で洗ってから神様のもとにお供えされていた。お供えの仕方も、楉案(椎の細枝を何本も列べて藤蔓で編んだ机)の上に御綱柏(三角柏・アカメカシワともいう)の葉を敷き詰めて、その上に海の幸、山の幸を盛ってお供えしていた時代もあった。
明治4年(1871)の神宮改革により組織改変が行われてからは全国の領地は全廃され、原則として神宮自ら御物を賄う自給自足の制度へと改められた。現行の神嘗祭で皇大神宮(内宮)と荒祭宮に奉奠される由貴大御饌の神饌は、飯・餅・玉貫鰒・身取鰒・乾鯛・鰒・蝦(伊勢海老)・鯛(生の切身)・乾梭魚・乾伎須・乾栄螺・海参・乾鰹・鯉・乾鮫・乾鯥・乾香魚・野鳥・水鳥・海松・紫海苔・蓮根・大根・梨・柿の25品で、それに白酒・黒酒・醴酒・清酒、塩、水が加わる。由貴とは、「神聖な貢ぎ物」を意味する。
神宮では、『祭祀集覧』に「朝夕供進の御饌(神饌のお供え)は黒米の蒸飯、二見浦の堅塩、天忍井の御水、是の三種なり」と記されているように、生命の源である米・塩・水は太古から大御神の大切なお供えとされてきた。とりわけ二見浦の御塩は、お祭りの際、お供えとして捧げられるだけでなく、お清めの塩としても使用されてきた。この二見浦から御塩を供進したことは、第11代垂仁天皇の御代、皇大神宮(内宮)御鎮座当時に始まったと伝えられている。
倭姫命が天照大御神を奉じて諸国を巡られ、北伊勢から南にお進みになり、鷲取の小浜から二見の浜に出られた時に、土地の神、佐見都日女がお迎えして、堅塩を奉ったところ、命はこれを愛でられ、その地に堅田の社を定められた。この社が二見町江に御鎮座の皇大神宮摂社堅田神社で、二見から大御神の御塩を奉る起源となっている。次いで、倭姫命に従われた乙若子命が、御塩作りには不可欠の御塩浜と御塩山を定められたといわれる。
神宮の御塩は、古くは御塩山の木を伐り、御塩浜の海潮を汲んで御塩焼所に運び、荒塩に焼いて、さらに御塩殿において堅塩に固められる。御塩作りは、「御塩焼物忌」が外宮・内宮におかれ、忌み籠もって奉製にあたったことが既に平安初期の『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』に記されている。
鎌倉時代までは御塩殿造進料田というものがあり、御塩焼物忌たちが、その田の租によって御塩を調進してきたが、鎌倉時代末期になると御塩焼物忌が関係しなくなり、新たに御塩所司職という神役人がおかれた。因みに、永仁3年(1295)の『伊勢新名所絵歌合』下巻には当時の二見浦での御塩作りの様子が見事に描写されている。
近世から近代に至っても幾多の困難は生じたが、二見より御塩は堅塩として調進され続け、今日に至っている。
以上紹介してきた神宮の神饌について、幾度の変遷はあるものの、神職の浄明正直の精神性と祭祀奉仕の心得は古来不変と申し上げても過言ではなく、昔と変わらず今も神々に深い祈りが捧げられている。そして神々にお供えされた神饌は余すことなくご奉仕に携わった者に頒賜されるのである。
今日エネルギー資源の浪費や産業廃棄物の拡大により地球環境の温暖化と自然破壊が国際的に問題視されている。それと反比例して、生活習慣において食文化は随分と効率化がはかられるようになってきた。素材の下処理も味付けも一切せず、レンジで加熱するだけで美味しくいただける冷凍食品が今やスーパーの店頭に並ぶ。核家族や共働きが当たり前のようになった時代において、調理の手間が省けることは、扶養の子供をたくさん抱えた家庭や要介護の家庭には画期的な食の革命といえる。
しかし「いただきます」の精神、いのちをいただく感謝の心、本居宣長の『玉鉾百首』にある「たなつものももの木草も天照らす日の大神のめぐみ得てこそ」「朝よひに物喰ふごとに豊宇気の神のめぐみを思へ世の人」の神道の精神を象徴する食前・食後に唱える和歌を知っている人はどれだけいるのであろうか。海川山野の種々の食材、自然の恵みに感謝する心を日本人は失っていないか、今日の食生活を危惧する点は多々ある。
神宮の神饌の例として先に神嘗祭の皇大神宮と荒祭宮奉奠の品々を紹介したが、実に干物が多いことにお気づきのことだろう。保存食としても重宝される乾魚は天日干しにすることで旨味成分が凝縮され栄養価も増すといわれる。なお神宮では、蝦や牡蠣、烏賊など蒸した神饌も神前に奉奠される。中世までの社会においては、「煮る」という調理法が無かった時代であり、焼くか蒸すかの調理において、食材の旨味を上手に引き出すために、蒸してお供えする方が神様に美味しく召し上がっていただけると古代人は考えたのだろうか。現行祭祀においても、一部古くからの神饌調理が守り伝えられているのである。
繰り返しになるが、古来神社に奉仕する神職は、自然の恵みである海の幸・山の幸をまず神々にお供えして、そのお下がりを食すという、感謝の心を捧げてきた。郷里滋賀で過ごした少年時代の記憶を辿ると、毎朝神棚と仏壇に炊きたての飯を祖母か母のどちらかがお供えしていたことを思い出した。古くはご先祖様への日供を欠かさない家庭は多かったと思うが、今はどうであろうか。日本人の伝統的な食文化の美徳、大切なものが完全に見失われてしまう前に未来への指針として、ここに神宮の神饌の歴史を紹介し、擱筆とする。